社会人がオリンピックの感動を実生活に持ち込むと社畜化する
今回のリオデジャネイロオリンピック。日本勢はかなり良い成績を上げていますね。
トップアスリートの超人的なパフォーマンス。本番で見せる美しい演技の裏に、血の滲む努力が垣間見えるような感覚に、感動を覚えます。
ですが連日報道される、メダルを取ったことが「国のために偉いことをした」かのようなニュアンスには違和感を覚えます。
レスリングの吉田沙保里選手も、決勝で敗れて銀メダルとなった際に「申し訳ありませんでした」との言葉を発していて、胸が苦しくなりました。
競技スポーツは自分のために行うべきです。謝る必要がありません。
オリンピックの感動を社会に持ち込まないこと
さて、本題に入ります。
国民も結果を批評しないべきです。「十分よくやった!次がんばれ」といったコメントですらも、何もサポートしていない(テレビでの応援など何も役に立たない)、オリンピックでたまたま応援したような人が発する言葉としては横柄ともいえるでしょう。
金メダルだから偉い、メダルを取れなかったからダメだという価値観からは離れる必要があります。
それは私たちがオリンピックを見終わって実生活に戻ったとき、無意識に価値観として蓄積されてしまうからです。
何が蓄積されるのか。それは「競争」の価値観です。仕事で会社のため(国家、国)のためにライバル(他国選手、自国選手)に負けないように身を削る。これを良しとする社会は、健全ではありません。そのようなスパイラルに陥ってしまうと、周りが見えずに奉仕するようになってしまいます。
努力は偉い?社会における努力崇拝のデメリット
なぜか自分を律して、競争するように努力すると「偉い」といった印象を持たれるような都合のよい民衆になってしまっています。ですがあなたが努力をして得をするのは会社のトップ、社会の上位層(顔も知らない)1%だということにいい加減気が付きましょう。
社員が身を削って何とか存続できる会社など、社員にとっても、社会にとってもプラスにはならないのです。
社員にとっては、自分の身を削りながら収益性も将来性も良くない会社にとどまり続けることは、何もメリットがありません。
社会(日本の労働者)にとっても、ブラック企業が潰れたり人が集まらなかったりすることは大いにブラスなことです。人が集まらなければブラック企業が求人条件を上げなくては労働力が確保できなくなるし、そもそも潰れていれば騙されて入社してしまうこともありません。
「苦しい努力」をして周囲に褒められるのは嬉しいかもしれませんが、大きい意味での周囲への影響も考える必要があるということです。
スポーツは、芸術である
スポーツは、芸術だ。これは突拍子な意見ではありません。まず観る側が「芸術を楽しんでいる」という感覚を持つことが重要になってきます。100m走が観ている者の心を打ち、興奮させるのは、人間の限界ともいえるスピードで繰り広げられるレースが「美しい」からではないでしょうか。日本が勝ったとか、どこの国の選手が勝ったとか、国籍は関係ありません。人類最速を求めるその猛者達のその日までの準備、その人生が美しく輝いているのです。
芸術には勝敗はありません。それぞれの美しさがあります。泳ぎは遅くても、美しい泳ぎで観衆を感動させる選手もいます。それぞれが美しさを発揮していけばよいのです。
自戒の意味を込めて。競争はいらない。